ジャンル全体の進化を考えない批評家はいらない

 マンガを中心に読むようになって、小説をまったく読まなくなって3年になったが、そのあいだに痛切に感じたことを書く。
 小説は売れない。絶対に売れない。その理由はたったひとつしかない。それは売れる作品を評価するシステムがないから。読者の底辺を広げるためのシステムが構築されていないから、いつまでたっても読者の総体が増えない。
 原因は何か。作家にも問題もある。売れる作品よりも評価を受けやすい作品を目指していることが多々ある。編集者にも問題がある。ある作家が一作目で売れる作品を書いたとする、とすればニ作目は編集者好みの売れない作品に仕立てあげられる、結果売れない。
 しかしこのシステムの最大の戦犯は書評家であると考える(批評家、評論家含む)。
 彼らが売れない作品ばかりを評価し、編集者も同じように売れない作品ばかりを評価することで、売れない作品の再生産が繰り返される。売れる作品はあまり評価されない。売れた作品は売れているからいいでしょとばかりに無視される。売れていることはわかるが、それは数字だけ。
 そんな状態で誰が売れる作品を書こうか。まったく褒めてもらえない数字だけの作品よりは、褒めてもらえる作品を書くのが道理。実際に編集者もそちらを書けっていってるし。
 だから売れない作品しかできない。売れる作品ができても次回作はなく、消えるだけ。もしくは売れない作家に無理矢理変えさせられる。このジャンルには作品をたくさん売ろうという思想が足りない。だから、出版社の屋台骨を他のジャンル(マンガなど)に支えてもらい、文芸誌の発行部数もありとあらゆる雑誌のなかで最下位というエンタテイメントの名を冠するに値しないものになってしまっているのだ。
 無論、小説が売れない原因は他にもあろう。夏目漱石の存在や教科書に作品が載ってしまっていること。個人的には小説の権威化こそが小説が読まれない最大の要因であると考える。ただのエンタメを教科書なんざに載せるのは止めろ、夏目漱石を唯一の基準とするのは止めろ。小説にはもっと多様な作品があるのだ。こちらで無理矢理基準をつくるのは止めておけ。
 ただ、それは単なる枝葉末節。いくら過去に障害があっても、現代で乗り越えてしまえばいいだけのこと。それでも現代では乗り越えることができていない。それは上に書いたように売れる作品を評価できていないからではないか。こんなジャンルは珍しい。ほとんどのジャンルでは売れる作品はそれだけで一定の評価を受ける。
 例外があるとすれば映画か。しかし映画は芸術志向と商業志向が別のところで存在する御陰で商業志向がきっちりとジャンルの屋台骨を支えると同時にジャンルとしての進化も別のところで行なわれている。
 だが、小説には商業志向自体がない。いや、あったとしても芸術志向の範囲内で、どれだけくだらない作品といわれる作品であったとしても売ってやろうという気概が足りない。事実、最先端の作品が馬鹿売れするなんてことはそれほどないと思う。どんなジャンルでも。本当に売れるのは最先端から一歩引いてはいるけれども、完成度の高い作品。しかし、小説はそんな作品でも必ずしも誰でも楽しめる売れる作品になっていないのが現状だ。それくらい一般読者と文芸関係者の志向は乖離している。
 普通はそれがなければなりたたないのだが、出版社としては他の業種で商売を成り立たせてしまっているのだから、性質が悪いことこのうえない。もしくは小さい世界のなかでなんとか商売をしているか。
 断言してもいいのだけれど、第二の村上春樹が出てきたときに批評家は間違いなく彼を評価することはできないだろう。そして彼と同じように批評家に絶望し、離れてしまうという状況をつくりだしてしまうだろう。あの「世界の中心で愛をさけぶ」にそれが起こったと考えることもできる。現在のケータイ小説の流れを考えれば、ありえない話ではない。だけれども、それは歴史が決めることだ。
 このままでは小説はいつかなくなってしまうだろう。残るのはライトノベルケータイ小説くらい。それも小説という波に飲み込まれなければだが。それくらい小説というジャンルには致命的な病原菌が蝕んでいる。小説はいつか消える、それは決して遠い未来ではない。100年もったらありがたいくらいのレベルでなくなっていくだろう。それはジャンルが悪いのではなく、シンプルな表現だったからではなく、売ろうとする奴らが糞だっただけの話だ。